2009年6月21日日曜日

ぼくと短編小説

最近、自分が以前書いていた日記(カモノハシ通信1とか)を読み返すことが多いのですが、我ながらちょっと感心したのが以下の回。短編小説の読み方について(偉そうに)指南しつつ、自作のそれっぽい文章まで書いてあるではないですか(汗)。うんうん、言いたいことは分かるよ、と13年前の自分に頷きます。ちょっと恥ずかしいけど。



(ここから昔の引用です)
「短編小説の読み方もどき」カモノハシ通信1999.12.16

小説とミステリーは全然違います。どこが違うのかというとミステリーはストーリーそのものを主に楽しむものであり、小説はそこにこめられた作者の意図や思いを読むものだからです。つまりだから小説は深読み(ふかよみ)できるのです。まぁもちろんミステリーだって作者の意図がこめられていたり、小説だってストーリーを楽しむわけですから一概には言えないかも知れませんが。

でもとにかく今日は「小説の深読み」について書いてみます。

小説は書き手と読み手にとって時としてまったくの別物になってしまいます。

例えば僕が今とても「ひもじくて悲しくて寂しい」とします。それの気持ちをこめてこんな文章を書いたとします。


夕ぐれの頃、電灯が灯り始めた堤防横の道を僕は歩いていた。風はあくまで冷たく、鋭い。ふと空を見上げると気の早い一番星が小さく白く輝いているではないか。その星を見て僕はふと、敬子が死ぬ前に残した1つの言葉を思い出した。……(つづく)。


僕としては精一杯の「ひもじさ・悲しさ・寂しさ」を込めたつもりのこの文章でも、読み手は作者が個人的にひもじくて悲しくて寂しいなんてことは直接はわかりません。ひょっとしたら読み手によってはまったく別な感じ方をするかも知れません。

あと例えば、これは短編小説に多いのですが、小説全体がひとつのメタファー(たとえ、暗喩)になっているパターンもあります。例えば僕が「今の若い人に対してどうしようもなくあきらめている」ということを小説で「たとえて」書いてみたとします。


そのウェイトレスはいかにも不機嫌そうに僕の前にコーラの入ったグラスを置いていった。まぁいい、ちゃんと頼んだコーラがきたことだけでも良かったのかも知れない。僕はグラスの中の黒い液体を見てそう思った。飲もうとしてグラスを持ち上げると、その湿り気のせいでコースターまでが一緒にグラスについて持ち上がり、そしてそれは次の瞬間はがれ落ちた。はがれ落ちたコースターが転がっていった先のテーブルには同じクラスの貝本浩治が数人の女の子を連れて座っていた……(つづく)。


例えばこういう文章だけ読んでも、これが「今の若い人に対するあきらめ」について書いてあると言うことは直接はわかりません。だけど、じっくりと深読みするとなんとなくですが「この人は自分の殻の中に閉じこもりがちな人なんじゃないだろうか?」とか「この人は同世代の若い人が嫌いなんだな」とか想像することが出来ます。それは「黒い液体」とか「不機嫌」とかといった言葉からも感じることが出来ます。

これを村上春樹のように上手な作家がやると本当におもしろいことになります。

例えば「図書館奇譚」という短編小説があります。…
��ここまで引用です)




このあと村上春樹さんの「図書館奇譚」を題材に、作者が言おうとしているのではないかと思われる隠された意図について、僕なりに推察していくくだりがあります。そこもけっこう面白いのですが、あまりに偉そう(そのわりに稚拙)なのでカット。

でも小説の読み方ということについての基本的な僕の考え方を、素直に表した文章だとあらためて納得です、我ながら。

ミステリーやストーリー重視の小説と違って、ある種の小説には作者の意図・気持ちが巧妙に隠されています。そこを感じ取ることができれば、作品への理解は深まり、より深く好きになることができるものです。

それって絵画鑑賞や音楽鑑賞でも同じです、僕の場合。絵画だと描かれた絵そのものだけでなく、そこから感じられる作者の心持ちに自分なりに思いをはせることが肝要なのではないでしょうか。

もちろんzipを解凍するみたいに、もともとあったありのままの意図・感情を正確に再現することは、読者・観客である我々には不可能なことです。それでもなお僕らがそれをしようとするのは「もしかしたら似たような経験が僕にもあるかも」って思えることに無意識に期待しているってことなのかも知れません。感情体験の無意識下での共有。うまく言葉で表現できていませんが、そういうのがない人生なんて、まるでクリープを入れないコーヒーみたいなものだと思うのですが、いかがでしょうか?

ま、僕はコーヒーにクリープは入れませんが、めったに。

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