2018年3月21日水曜日

過去文書:壁になる

なんとなく昔の自分の文章を読み返してみました。大学生のくせして全体的に偉そうではありますが、親となった今でも言ってることはよくわかります(^_^;)。久しぶりの過去文書です。1998年当時の(今で言うところの)ブログ記事「一人語り日記」より。

1998年9月10日

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枠について1「壁になる」 投稿者:くろたき  投稿日:1998年11月15日(日)01時21分02秒

水泳部のコーチを引退してもう3ヶ月がたった。けど僕の気持ちはまだまだ切れそうにない。一体いつになれば精神的にも水泳部から卒業できるのか、それはまったくの不明です。

さて、自分がコーチをしていたことについて振り返ると、いろいろ心がけていたことや、こうすればよかったこと、後悔してること、反省すべきこと等を思います。で、今日の父兄会で思ったこと、というよりホントは口に出して言いたかったことを書きます。

僕は中学生を指導する立場として、彼らを枠(わく)にはめたくはありませんでした。

どちらかと言えば枠にはまらない、自分でものの考えられる人になってほしいと考えていました。(それがメインじゃなかったけど)だけど、こっからが大事なんだけど、

枠にははめないけど、僕は彼らに「枠」を与えようと思っていました。

どういうことか。僕が思うに今時の子には強力な「枠」の存在が不足しています。最近の文部省の「ゆとりの教育」とか「自主性を重んじた教育」なんて、「枠」を悪者扱いして、それをどんどん取り外そうとしてると思いませんか?そりゃ確かに子供達からしたら「枠」なんてものは鬱陶しい存在だから、なければもっとのびのびできると思うでしょう。

けど、僕は思うのですが、思春期の子供達は、ぶつかって反抗するべき枠があって、それにぶつかっていくことで成長するんじゃないでしょうか。相撲のぶつかり稽古みたいに。こないだ僕が講演会を聴きにいった河合隼雄さんも本の中でこう言ってます。「子供は成長してゆくとき、時にその成長カーブが急上昇するとき、自分でも押さえきれない不可解な力が沸き上がってくるのを感じる。それを何でもいいからぶっつけてみて、ぶつかった衝撃のなかで、自らの存在を確かめてみるようなところがある。(中略)壁にさえぎられ、子供は自分の力の限界を感じたり、腹を立てたり、くやしい思いをしたりする。しかし、そのような経験を通じてこそ、子供は自分というものを知り、現実というものを知るのである。」

僕はこの人の書いてる本を全面的には賛成できませんが、この部分はよくわかります。でもここで問題なのは、どこまで子供を理解しようとするかなんです。

つまり、わかりやすい例をあげると、春先の水の冷たいプールで練習中にある生徒がコーチに向かって「こんな寒いのに泳がせるなんておかしい」って言ったとします。(あくまで例ね)。ここでコーチがこの生徒の言い分も理解できる、確かに寒いからもうあがりなさい、と言ったとする。これではなんの壁にもなってないですよね。だから「理解」と「壁」は相容れない関係にあるんです。

さっきの例にもどります。僕だってプールが寒くて、たぶんこいつは本気で限界だと感じてこういうことを言ってるんだと理解します、が、あえてその理解を押し込めて「泳げ」と言います。「壁」になるんです。そしたらその生徒は本気で腹を立てるでしょう。「まったくこのコーチは一体なにを考えてるねん」って。でも、もしここでもう少し泳ぐことができたとしたら、腹立たしいながらももっと泳げる自分を発見できるんです。

ただ、こうやって壁になるのははっきり言って疲れます。だって文字通り生徒がぶつかってくるんだから。もしぶつかってこられて、すぐに壊れてしまうような壁じゃあ逆効果だし、僕が100%正しいなんてことはあり得ないからです。責任だってでてきます。

でも僕は思うのですが、本当の絆をつくろうと思えば、こっちもそんくらいの覚悟をもって、(極端な言い方をすれば)命をかけて壁になってやるべきなんです。成功するか失敗するかはわかんないけど。

さっきも書いたけど社会全体を見たとき、今の子供にはぶつかっていける、生きた壁が不足しています。今までは無条件に親がそうでしたが、最近は生半可に「理解のある」親が増えてきているように見受けられます。「理解」という言葉を使って壁になることから逃げてるんです。いつの間にか「枠」が「壁」という言葉に化けていました。この続きは近々。 


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