水泳部のこと(1)

あらかじめスミマセン。このシリーズは完全に「うちわ向け」の内容です。僕は中学高校時代、水泳部に入ってまして、大学時代は母校中学水泳部のコーチをやってました。その後、OBの集まりの幹事をやったりとかそういうことをこれから書きます。

中学部・高等部水泳部のOB会「月泳会」が発足いたしました!発足に向けてご尽力いただいた先輩方のおかげです。僕だけではどうにもなっていませんでしたので、その辺のことを書いてみたいと思います。

(このブログ全体を書いたあとの僕からの注)
えー、ここから、なんと言うかやたら「僕ってすごいでしょ」「誰かほめて僕を!」的な文章が続きますので、えー、なるべく生暖かい気持ちで見守っていただければと思います。


<1997年12月のOB会>

思えば僕が大学生で水泳部コーチをしていた1997年。誰も何も深く考えずに「関学中高水泳部OB会」と銘打って大阪リーガロイヤルホテルで「OB会」を開催しました。関係無いですが僕のホームページはもともとこの「OB会」の写真(当時出たばかりのデジタルカメラ、カシオQV-10か11。豪さんの。画像は320×240!デジタルデータでちゃんと残ってますよ!)を載せるために最初に立ち上げました。



97年の時はなんと言っても名簿をほぼゼロから作ったのがエラかったです。学院名簿とか高等部の名簿とか中学部の名簿とか(あのB6サイズの小冊子。あれに所属部活書いてあったんですよね。今は個人情報云々でもう配布してないとか)を見ながら、みんなして僕んちでパソコン2台を駆使しながら入力しました。なぜか一太郎に。だってエクセルなんて持ってなかったから。

あの時は確か往復ハガキで200通ほど案内を送ったと思います。(これまた僕んちのプリンターでしゃこしゃこ印刷したんだと思います。)今から思うとレスポンス率はけっこう優秀で100通以上は返信があったような。このときの返信はがきは僕が実家で保管しています。

で集まったのが先生方含めトータル90名ほど。ごたいそうにリーガロイヤルの大広間でやりましたもんね。大学3年生だった僕はホテルでの宴会など何にも知らないのに、よくやったもんだ。何度かホテルに打合せに行きましたが、ビールの銘柄に気を遣うのとかそのとき初めて知りました。
右端が若かりし僕


誰も何も深く考えずに「これを機にOB会を発足させましょう!」の流れで拍手しゃんしゃん。僕が会長ということになりました。が、当日場当たり的にやった寄付金集めはほぼ集まらず、その後もOB会としては何にもできず、僕は普通にコーチとして頑張った後、卒業して就職していきました。今思えばどうして学生を会長にしたんだろう?

ですが名簿のアップデートは進みました。このOB会当日もたくさんの情報が集まりましたし、その点は非常に良かったです。これが今のOB名簿のベースとなっています。

その後、2001年9月に先輩の企画でOBレース+懇親会を開いていただきましたが、そのときは(まだ個人情報云々もさほどまぁアレな感じでしたので)その時点での最新名簿を大学水泳部にお渡しして全部やってもらいました。

ちなみにこのときにはじめて名簿をエクセル化しました。最初の名簿はさっきも書きましたが一太郎でして、しかも罫線で表が書いてあるわけですよ。コンバートは結構大変でした。CSVで吐き出したデータを整形してエクセルに取り込むわけですが、正規表現もろくに使えなかった当時の僕はけっこう原始的に大量のカンマたちと格闘していました(笑)。

このまま順当にOB会組織が出来ていけば良かったのですが、そうもいきません。97年の時から十分にわかってはいたのですが、意外と人間間の確執とかあったりして、みなさんいい大人なのにどうしてこうなった的な部分も無きにしもあらずな感じで、どうしても全体としての一体感は生まれてきませんでした。

僕は僕で「僕が一番上手にガンダムに乗れるんだ!」じゃなくて「僕が一番水泳部に通じているんだ!」的な変な自負心もあり「別に全体のOB会なんか無くても僕前後以降の若者主体でOB会的な活動・支援はできるもんね。実際動いてるの僕らだけだし」と妙にエラそうな気持ちを持っていました。エラそうでバカなんですが、ただ今となって思えばそんな風に卒業後もストーカー的にプールに出入りしていたおかげで、次の世代やその次の世代とのつながりが「微妙に」生まれていたのだと思います。

というわけで変な自負心の根拠をげぷり痛い自慢話?的に書いちゃいます。(続く)


2 件のコメント :

  1. おー、懐かしい! 二枚目の写真の左から二番目が僕かな? ずいぶん若いな~。
    この前はお疲れ様、また会えるのを楽しみにしてます。

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  2. そうですたくろうです。
    ありがとうね

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