自分の物語

前にも使ったことあるかな?(実は一つ前からの続きです。ちなみにこの写真は「僕と宮島の鹿さん」です。前にもどっかで使ったかも。誕生日のときといい最近自分が登場する機会が増えている…)

僕は思うのですが、過去に戻って人生をやり直す、というストーリーそのものは完全な作り物=フィクションなわけですが、それに近い「現実」の物語って意外とそばに転がっていたりするのではないか、と。みんな物語って言うとバカにしたり、笑い飛ばしたりしがちですが、そう簡単に「蚊帳の外」に出してしまってよいものかと、僕は問いたい。

そのストーリーがどれだけ骨董無形であっても、人間は皆ストーリー(=物語)の中で自分を生かしています。かなわないと分かりつつ、子供っぽいと思いつつ、それでも自分の中に何かしらの物語を思い描いたりします。たとえ現実的ではなくとも、その思い描かれた物語の中にこそ、その人の本当の姿が現れるのではないか、また思い描いた物語の中身によってこそ、現実の選択がなされるのではないか、と僕は思います。

最近読んだ本でこんなことが書いてありました。現代の多くの人は「先祖を大切にしなかったからバチがあたった」とか「自分の過去の過ちのせいで(今の)悪い出来事が起こった」という「フィクション」を意外と真剣に信じている、と。宗教や信仰とまではいかなくとも、そういう土着的な物語にとらわれている人は非常に多いのではないかと、僕も思います。それがいいとか悪いというわけではなく、人が物語によって生かされているということの一つの典型例です。

これを悪用して「先祖の悪い霊を成仏させないと子孫にまで悪いことがおこりますよ」とか言って高価なツボを売りつけたり、またそれを買ったり、あるいはオウムだって同じで「汚れた現世をポア(抹殺)することで皆幸せになれる」なんてとんでもない物語を多くの人に信じ込ませることで、あんな事件が起こったり、要は人間に対する物語の力っては、多くの人が自覚しているほど小さくはないんだよ、むしろ大きいんだよってことです。

そんな物語の力を考えると、現実の世界で「タイムマシンにのって過去をやり直す」こと(あるいは結婚式場の妖精の力を借りてカメラのフラッシュで過去を行き来すること(笑←ドラマの話ですよ))は出来なくとも、自分の物語の中では「過去をやり直す」ことはできるのではないか、と僕は真剣に思います。自分の過去を再評価し、やり直すこと。それは決して不可能ではありません。それはイコール、新しい物語を自分の中につくりあげること、です。なんて分かった風なことを言ってますが、意外と本心です。

久しぶりに今思い出したことがあるので書いてみます。それにしても「ドラマ終わったね」と、2~3行で終わるつもりの今回のブログですが、意外に長編になってきました。※と、いうことで分割してみました。

高等部(という言い方はウチワな感じですね)の卒業前、クラスの全員が「これまでの3年間とこれからの大学生活への展望」みたいなスピーチをする機会がありました。あれ?何の機会だったんだろうなぁ?ミズサキ先生も意外とまともなことをしてたんだね(笑)。そこで僕は少しヒンシュクを買ってしまいました。(ヒンシュクを買ったということをどうやって自分で認識したんだろう?もしかしたら僕の思い込みかも知れない。)

僕が話した内容のほとんどは覚えていませんが、この部分だけは覚えています。「これまでの自分の輝かしい栄光や、忘れがたい失敗や、そんなことは一度リセットして、新しい気持ちで大学生活を始めたいです」。

その時、意地の悪いアメフト部のヤツ(笑)から「自分で『栄光』なんて言うか?」と言われたような記憶があります。それが真剣な嫌味であった可能性はまずないのですが、僕の心には結構グサリと残っているわけです。僕は自分で自分の「栄光」なんてことを言いたかったわけではなく、むしろ「忘れがたい失敗」の方を強調したかったのに、なんでそんな風に見られるのかな、という気持ち。僕は中学・高校とかなり目立っていました(笑)。かなりイイ子ちゃんとして、つまり偽善者として。もともと目立ちたがり屋なのに、目立つ理由がそんな具合だから当時から「やっかみ」の様なものも若干(本当に若干)あったような気がしてました。(ただし反面、自分をオープンにさらけ出していた面もあったので、その点で多くの人からは「分かってもらえていたはずだ」との思いもあります。)そんなわけでこんなにヒネクレものになってしまったのかも知れません(ホントに笑)。

とにもかくにも「忘れがたい失敗」をリセットしたい高校3年生の自分がそこにはいました。思えばその時も、いや中学3年生の時だって同じ気持ちだったし、今だって同じ気持ちです。「できることなら過去をやり直したい」、そう思う自分がいます。そしてそんなとき、頭の中ではいつも自分の理想とする自分が漫画のような美しい場面で大活躍(時には影で活躍)しています。そのことで悲しい気持ちになったり、悔しい思いをすることは、きっと誰しもあるのでしょうね。

ただ意外なことに、そんな自分の頭の中の理想的な物語に、励まされたり、勇気付けられたりすることも多いのではないでしょうか。0%の可能性に半分あきらめながらも、その0%の可能性に勇気付けられるもう半分の自分がいます。自分の過去を美化しすぎるのは僕だけでしょうか?頭の中の甘い物語に陶酔するのは僕だけでしょうか?そしてそんなものにいつまでもしがみつき、ほぼ唯一の自分の熱源にしているのは僕だけでしょうか?…な~んて、人のことまでは分かりませんが、僕は結構そんな感じです。

ありきたりな表現ですが、過去の自分があるから今の自分がいる、それは物理的な事実であり、また物語的な真実でもあります。過去の「忘れがたい失敗」を後悔する自分がいるから、今の自分がいる。ある出来事がその時点ではマイナスであったとしても、今の自分にはプラスになっている、そんな物語を信じてみてもいいのではないでしょうか?誰に向かって言ってるのかわかんなくなってきましたが、僕はそんな物語にすがって31年目の人生を(それなりに一生懸命に)生きています。

あと今の若い人や子供達に言いたいのは、善き物語を学ぶこと、そして善き物語を自分で作り、切り開いていけるような知恵と力、学力と真心を持てよな!ってことです。あとは大人が一部のチープな物語に踊らされないことですよね、

以上、ドラマを見て思ったことでした!
ちなみにこのドラマは善き物語だと思いましたよ(^_^)


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