2005年3月20日日曜日

過去文書「許容範囲内の悪」

5d8ef3eb.jpg1999年12月12日「カモノハシ通信」に掲載

僕が水泳部のコーチとして中学生を指導するときに心がけていたことに、僕自身が強固な「枠(わく)」になろうということがあった。(前にも書いたことがある。成功してたかどうかはともかく。)これは彼ら中学生を「枠にはめよう」としていたということではない。子供が大人に成長するためには一度そういう枠(それは主に常識と呼ばれるものである)を与えてあげて、そこにぶつかることによって自分と社会との関係やバランス感覚、そして自分というものの認識をすることが必要だと思うからである。思春期の少年にとって、常識や社会通念(それらは主に大人によってつくられているものである)がたまらなく鬱陶しくなる時期がある。俗に言う反抗期。でもこれは社会と自分との関係を知る上で非常に重要な通過儀礼である。だからそこには彼らがぶつかっていけるだけの強固な確固とした「枠」が必要なのだ。しかし問題は世間一般を見渡したとき、その「枠」が以前ほど強固でなくなってきていると言うことである。

原因はいろいろあると思うが、一つには「ゆとりの教育」などと言ってはねじ曲がった意味での「自由」を子供達に認めすぎているということがある。ごく最近になってようやく「ゆとりの教育」に対する批判がかなり大きなムーブメントになってきたが、それはもはや手遅れであると言ってもいいだろう。「ゆとりの教育」とは言い換えれば「枠」を取っ払って「個性」とか「自由」を尊重しようと言う考え方のことである。これは完全に間違いだ。成長というものはぶつかるものがあって、つまり試練があってはじめて顕れるものである。すもうのぶつかり稽古のように、あるいは稲を育てる際に一度完全に水を抜いて根を成長させるのと同じように、一度厳しいところを通過させないことにはそこには実のあるものは何も生まれない。

さてここからが本題。僕が言いたいことに入っていくのだが、「枠」があってはじめて生まれる非常に大事な概念がある。それは「許容範囲内の悪」である。人は皆誰でも少年時代を通じてこの「許容範囲内の悪」を学びながら成長しているのではあるまいか?どんな人間だって「私は一切悪いことをしたことがない」なんて言える人はいないだろう。特に少年時代、親の目を盗んではなにか悪さをしてみたり、先生の目を盗んでは授業中に友達と遊んだりと、そういうことは誰しも経験があることだろう。だけどナイフで人を刺したりしたことがある人はそうはいまい。つまり「許容範囲内の悪」という概念がちゃんとあったということだ。そして「許容範囲内の悪」という概念を形成するために必要なのが、「枠」であることは言うまでもない。簡単に言うと

きちんとしかれる親があって、子は「許容範囲内の悪」を覚える

のだ。もちろん親はある場合では先生であり、ある場合ではコーチである。

ここで誤解してほしくないのだけれど「許容範囲内の悪」というのはやっぱり悪なのである。だけど少年は悪いこととわかっていながらそれを行うのだ。ここに重要な意味がある。だからできるだけ親や先生に見つからないようにしようとする。なぜなら見つかると怒られることがわかっているからである。「許容範囲内の悪」の概念に「枠」が必要だというのはそういう文脈においてである。

「ナイフを持たさないのではなくて、ナイフを持っていても大丈夫な子に育てる」ことが今の日本には欠けていると思う。これはつまり大人の側が、子供が正面からぶつかってきても受け止められるだけの強固な「枠」を持たずに、うまい具合に逃げようとしているということである。話が抽象的すぎて申し訳ないが僕が言いたいのは、そういう「弱い」大人が「許容範囲内の悪」のぼやけてしまった子供をつくりだしてるのではないかということだ。

さきほどの例で言うと「ナイフを持たさない」ということは「許容範囲内の悪」を認めないと言うことである。(ナイフを持つだけならそれは許容範囲内であり、それを使うとなると許容範囲外になる、ということ。)逆に言うと「許容範囲内の悪」という概念が弱くなってきているから「ナイフを持たさない」方向にいっているのだと思う。しかしそれが今の文部省や社会、マスコミが「善し」としている方向だ。僕はそこに大きな危機感を感じる。

以上のような理屈で言うと「ナイフを持たさない」方向と「枠をとっぱらうこと(=ゆとりの教育)」の方向性は実は同じである。

早いうちに「強固な枠」を再建しないことには事態はとんでもない方向へ行ってしまうと思う。いや、もはや「強固な枠」をつくるだけのパワーは日本にはないのかも知れない。

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下のオウムに関する文章でも書いたが、社会から「悪」を排除しようとする方向性は僕は間違っていると思う。「悪」を排除できるわけがないのだ。それを社会の中でどうにかうまく処理していかないことには健全な社会は生まれない。

これは例えば地域住民によるオウムの立ち退き運動で、「オウムをそこから立ち退かせることで問題の解決になるのか」ということと似ているが、僕が言いたいのはもっと深いことだ。オウムを気味の悪い笑い話のように「あっち側の問題」として考えるのではなくて、それを「こちら側」の問題としてとらえられるだけの強い価値観が今の日本にはあるのだろうか?「悪」を排除しようという動きは、それを包括できるだけの強い「枠」を持たない今の日本の現状を顕著に表していると思う。

誤解を恐れずに言うなら、オウムに対して異常な怒りをしめす「こちら側」の魂の闇の部分と、いわゆる「あちら側」の魂の闇の部分は、繋がっていると思うのだ。だからこそある人々はきつく目をつぶり、またある人々はそれを排除すべく異常なまでの怒りにかられるのだ。本当は「こちら側」の問題として自らしっかりと考えないといけない問題なのだ。

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今の日本が向かっている方向が僕はどうしても気に入らない。

それにしても抽象的な文章だなぁ。何の説得力もないや。

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