恥晒し、僕はいかにして免許を失ったか(前編)

僕は今現在、自動車の運転免許証を持っていません。昨年2004年の3月17日に取消処分を受けたからです。これから書くことは僕にとって「恥晒し」でありますが、自らへの戒めの意味として、また「悪しき見本」として誰かの役に立てればと思いもこめて、書いてみます。今となっては笑い話にしちゃってますけど。

話の始まりは2003年の夏のこと。この年の4月から会社の場所が品川インターシティに引越し、僕はたまに車で出勤することがありました。1日1500円の駐車場が近くにあったからです。「今日は遅くまで頑張らないといけないな」という日にはよく車で出勤してました。あの日もそうでした。

午前0時頃に仕事を終え、家路につきました。愛車の屋根をあけ、オープンにしました。7月始めだったので夜風がちょうど気持ちよい時期です。首都高速道路を通って寮に帰るのですが、その日はちょっと余分にドライブを楽しんでいたい気分でした。これがそもそもの災いのもとで、時間も遅いのだからさっさと帰っていればよかったのに、僕はわざわざ高速道路を遠回りして、9号深川線(ここ重要なところ)経由でレインボーブリッジを渡って帰ることにしました。

��号深川線は「ちょうど良い」コーナー(というかカーブですね)が立て続けに出てくる道路です。気取って直線でスピードを出している大きな車がスピードを落としてカーブを曲がっていくその横を、僕の軽自動車がすいーっと抜き去るのは快適です。…と当時は感じていたんです。僕の軽自動車はカーブを曲がるのが結構得意なのです。連続のS字とかもあって「ここが見せ場だ」とばかりに、今から思えばとんでもないスピードで車を走らせていました。(これが後に「スピード違反」どころではない事態を巻き起こすわけですが…。)あぁ、書いていても気が滅入る。

そのS字カーブを抜けて少ししたところに自動速度取締機(俗にオービス)があります。僕はそれを知っていました。でもそのオービスは長い間「死んで」いました。と、いうのはこれまでに何度も僕の車や人の車でその場所をオーバースピードで通過していたのですが何も反応していなかったからです。たぶんそれまでは所謂レーダーにも反応していなかったはずです。ところがその日は違いました。たぶんレーダーは鳴っていたはずです。でもおろかな僕はそれを信じませんでした。重ね重ねおろかです。

僕の目に赤い光が飛び込んできました。人生で2度目です。「やってしまった」と思ったところでもうどうしようもありません。うなだれて(たぶん外から見た僕の車もうなだれていたことでしょう)千葉まで帰りました。

具体的な速度は差し控えますが、超過50キロ以上、減点12点、一発免停です。ちなみに罰金(反則金ではない。額は簡易裁判で決定される)は9万円です。所謂長期免停90日間です。会社を休んで処分者講習を2日間受け、免停期間は30日間に短縮されました。

これにより2003年の10月頃の30日間(これがまたオープンカーにとって最も快適な季節なんですよね)、僕は免許ナシの生活をおくりました。

そして免許停止明けの4日目(この4日目というのもキーワード)、またもや愚かな出来事が起きてしまいます。(続きは後編)


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